高湯温泉の歴史
高湯温泉地図
「一切の鳴り物を禁ず」開湯四百年来の高湯のしきたりである。温泉街の付属物のように歓楽街を設けてきた去来慣習に背く志は今となり、高湯の最大の魅力につながっている。吾妻連峰の深い原生林に抱かれ、野鳥の囀りが冴え冴えと渡る閑かな集落を維持してきた古来の湯治場の姿が今も此処にある。
四季折々の景色に風情を添える白濁の湯。厳かで静謐な気概を有してきたこの地を「希少」と賞賛した先人には失礼だが、此処に暮らす里人にとっては至極当然の迷いなき道であったのだろう。
日本人が失ってしまった自然への畏敬を憂い、湯の温もりにゆるゆると癒されるひととき。耳に届くのは人の時の流れに囚われず鳴り響く、今も昔も変わらぬ山々のさざめき、高湯の湯守唄だろうか。
二つの開湯伝説
薬師堂
温泉神社
高湯温泉は2007年に開湯四百年を迎えたが、この開湯年の根拠は地元に伝わる二つの開湯伝説による。 この伝説の一つは信夫屋旅館の祖である在庭坂二子塚出身の宍戸五右衛門が慶長十二年に開いたと伝えられている。 もう一つは安達屋旅館の祖である菅野国安が慶長十二年十一月末に開いたとも伝えられている。 共に慶長十二年(1607年)という年号は合致しているので開湯の年は間違いないであろう。 また湯銭という税金を払ったという証文は、それ以前の文政四年(1595年)からあるのだが、慶長十二年という年号が開湯年として確定されているという事は、この年に正式な営業を役所に届け出るなどの行動を起こした年なのであろう。 当然それ以前の温泉利用は地元民を中心にされていたのだろうが、営業地として届出が必要なぐらいの利用者数が増えたと推察する。
宍戸五右衛門は二子塚の猟師と伝えられているが、信夫屋(現あったか湯)の祖先であり地元で名主など力のある者の次男であった。 菅野国安は安達郡木幡村出身で伊達家家臣であり、これは伊達家臣図により人物の確認ができる。 その武士出身の菅野国安が当時伊達家領地内であった高湯温泉地に入るのは十分納得できる。 つまり地元人が運営していた温泉地が繁栄して、それを役人相手に公に管理せざるを得なくなった時に、教養のある武士が温泉地に入ってきたという図式である。 そしてこれらの手続きをしたのが菅野国安であり慶長十二年であったのであろう。 つまり高湯温泉の二つの開湯伝説は、宗教的脚色などもあるが、どちらも正しいと云う事である。
高湯温泉の効能と、入浴方法
「三日一廻り、三廻り十日」と言う高湯湯治に必要な日数を示す。ひと廻りで身体を湯にならし、ふた廻りで身体の悪い部分がとれ、参廻りで調子が改善されるのだと言う。高湯の底力を愉しむには少なくても参廻り、十日間かかるという説である。
すなわち高湯に来たら、どんな無精者も「三日坊主」は浸かり損ということになる。その日の体調・癒処に合わせ急がず慌てずのんびり湯と向き合うことが高湯遊びの醍醐味。凛と清らかな山麓の精気を魂の馳走に、朝な夕な温泉街の鄙道をぶらぶらと昇っては降り、ときわすれの贅にとっぷりひたる。
かつて米味噌布団を担ぎ馬の背に揺られ出向いた山の湯の逗留。ゆるやかな往時の刻の流れに心を重ね、文豪気分で洒脱に過ごすも一興か。
温泉
森林浴
三日一廻り
一廻りで体を温泉に慣らし、二廻り目で体の悪い部分が抜け(湯さわり)、三廻りで改善に向かう、「三日一廻り」と言われる高湯温泉の湯治。滞在は少なくとも三廻り10日間程度が望ましい。但し温泉に体が合わない人は無理をしない事が大切。
入浴は1日に3〜4回、10分〜30分程度
入浴時間は温泉に体が慣れてから1日に3〜4回、10分〜30分程度にすること。食後すぐの入浴は控え、気分にまかせての長湯も禁物。発汗作用を促すために入浴前にお茶・白湯・水などの水分を摂取すること。
入浴中は休憩時間を取らない
温泉療養効果を得るため石鹸の使用や化粧はしないこと。入浴中は休息などは取らず1回の入浴時間を消化する。続湯が難しい場合は半身浴または足湯などの部分浴でも良い。
神経痛・慢性リウマチ・麻痺などの方の入浴法
神経痛・慢性リウマチ・麻痺などの方は湯の中で患部を無理せずゆっくり動かすと一層の効果が期待できる。関節炎の方は浴後に患部を冷やさないように。
入浴後は1時間ほど横になること
入浴後は各部屋にて1時間ほど横になることで温泉療養効果が一層高まる。
飲泉する際の心得
慢性便秘・痔・糖尿病などへの飲泉希望の場合、一日に1〜2回小盃に1杯程度を、ゆっくりと飲むこと。人や体調によって下痢を起こす場合もあるため回数と量には注意。但し飲泉はあくまでも昔からの慣習であって飲泉許可は未取得である。
森林浴も湯治のうち
温泉の効用は泉質もさることながら、自然の中での転地効用もあるとされる。晴れた日の散歩も効果が期待できるため自分ペースでの散策も積極的に行うと良い。